カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2013年7月16日 (火)

読まず嫌い

現在、日本の作家で一番売れているのは村上春樹らしいが、ボクは一冊も読んだことがない。

いや…正確に言うと…5~6行読んだことがある。
数年前、鬼嫁が娘からプレゼントされた『ノルウェーの森』だったと思うが、手にとって読み始めたら猛烈な嫌悪感に襲われた。

翻訳本かと錯覚するような文体だった。
もしかして翻訳を意識した文体ではないか?と訝ってしまうような文章が並んでいた。

思わず鬼嫁に、
「これが売れてるの? 翻訳小説じゃないか」
と呟いたら、
「あなたの性には合わないでしょうよ」
と速断された。


村上ファンには申し訳ないが、たったこれだけで読まず嫌いになってしまったのである。

難解なレトリックと壮大な話の展開がすごいらしいが、ついていけなかった。


ボクは斜め読みが得意だが、マジメに読むことだってある。
でもこの文体だけは…体が受け付けなかった。


日本の小説の至極は…『夏目漱石』だろう。

そして、思想的なものは…『埴谷雄高』である。


タイムマシンがあれば、この二人が存命している時代に行って、顔を合わせて話をしてみたい。
この歳になったら未来を見る気持ちはない。

あの時代のあの人がどんなことを考えていたかを…語り合いたい。

聞いてみたいことは一言だけ。

それは…本人に面と向かってでないと…言わない、書けない、話せない。

2013年6月26日 (水)

限界集落株式会社

日曜日に買った。
今日の昼休みに一気に通読した。
かなり厚い本だったが、ボクはだいたいいつもページをめくりながら斜め読みするので、昼休みの50分で十分である。


脱サラした主人公が、誰も住んでいなかった亡父の実家に戻って、疑心暗鬼の住民をまとめながら幾多の困難を克服し、農業生産法人を立ち上げるサクセスストーリーである。

読後はスカッとした気分が残った。


001

でもなんだかしゃんとしない。

色々な試練は実際に壁として立ちはだかっているものなのでリアルな展開ではある。
そして、苦しみながらもそれを次々と乗り越えていく。
いい展開だ。


しかし違和感がある。

冒険小説やヒーローものなら、次々と現れるピンチを切り抜けていくことに爽快感を思えるが、現実問題として全国各地で苦労している問題を次々と乗り越えていく。
だから、実情を垣間見ている人間にとっては、「ん?」と思ってしまうのだ。


あとがきを読んで「なるほど…」と思った。
千葉県の某農業生産法人にお礼の言葉が添えてあったが、たぶん都市近郊の集落で成功した事例を参考にしながら書き上げたもので、編集者がそれを「限界集落」というタイトルを付したのだろう。

そうでないと、ボクたちが知っている限界集落でこういう手法が通用するとは思えない。
地理的条件、部落住民の構成、販路、作物の種類、作物の病気、有害鳥獣対策…などなど、限界集落は四面楚歌状態である。

こういう課題に対するシンポジウムが全国で開催されるが、その時の講師がこういう方々である。
たしかに成功された方々だ。


でも、それを聞いてできるか?
さっき書いた…諸条件が全然違う。


気持ちを学べばいい。
なにをどうやって…やったか。
その時の周りがどうだったか。


それを聞いて、あとは自分が自分の場所を考えながら反芻すること。
他所の話をうのみにして成功したためしはない。

『限界集落』…安易に使ってほしくなかった。

この本を読むだけで、勘違いする人が増える。
そういう紹介をしてほしくない。
限界集落はそんな部落ではない。
もっともっと寂しい部落だ。


ボクがストーリーを書くとしたら、

…ボコボコに負けた主人公が、枯れかかった苗一本を握って山にヨタヨタ向かう…

そんなラストシーンしか思い浮かばない。


2013年2月 7日 (木)

角幡唯介

冒険家の書である。
彼はこれを書くことによって生活している。
それを糧として、スポンサーを募り再び冒険に出る生き方だ。

はちべえどのに紹介されて以来、読んでいる。

ボクが単行本を買うことは滅多にない。
ほとんどが文庫本である。

でも、ボクは気が短いので、
「読んでみたい」
と思った本は、値段に関係なく買う。


図書館で借りたらいいのだが、欲しいと思ったものは手に入れないと気が済まない。


先日、この二冊を買った。


001

両冊読んだ。

すさまじい冒険をやっている。

この時代、こんな冒険をできる人は少ない。

本を書いて、その著作料で冒険には行けないだろう。

だから、どうしても出版社の意向が働いている。

それが痛いように分かるのが辛い。


冒険家の世界でも越えなければいけないハードルがある。

獄中の『ホリエモン』は、どうしてこんなことに金を使おうとしなかったのだろうか?

自分が見たかった地球の姿ではなくて、地を這いまわることをしなかったのか残念でならない。


冒険家のしがらみをみて、サラリーマンの悲哀を一層感じた。

2011年2月 1日 (火)

空白の五マイル(角幡唯介著:集英社)

以前、はちべえどのが自身のブログで紹介されていたし、新聞の書評欄でも見かけていた。ようやく手元に届いたので早速読んでみた。

チベットのツアンポー峡谷の探検記である。
巻頭の地図を何度も見返しながら、むさぼるように読みふけった。
一度も飽きることがなく、一気に通読した。

自分の拙いヤブコギと重ね合わせながら読んだが、
激しい情熱や疲労感、虚脱感が共有できるすばらしいノンフィクションだった。

山の事故はほとんどの場合、なんでもないところで起きる。
僕自身の経験則でもそうだ。

特に、単独行で絶望的な場面に出くわしたときの独り言や、腰が抜けそうな絶望感は強烈な共感を覚えた。

ボク自身が次に狙っている山谷を思い浮かべながら、あの崖の向こうにはどんな風景があるのだろうかと想像をかきたてられた。


山は「早くこい」と誘ってくれているのだが、その前にやっかいな関門が待ち受けているので、モチベーションが上がらず、ずっと逡巡している。

もうすぐ大好きな三月がやってくるというのに、気が重くて仕方がない。
杞憂ならよいのだが…。

2010年11月30日 (火)

ことわざの論理(外山滋比古著)

ことわざの解釈の変遷についての記述があったので、面白かったものを数点引用しておく。

【転石、苔を生ぜず】
そもそもは、
「一箇所に長く腰を落ち着けていられないで、
たえず商売変えをするような人間に成功はおぼつかない。
そういう人間には金がたまらない」
という意味だった。

これがアメリカでは、
「優秀な人間であれば引く手あまた。
スカウトされてすぐに次の会社へ引き抜かれる。
だから、苔がつくひまもない」
と解釈される例が多いらしい。

アメリカが流動社会であるのに対し、
イギリスは定着社会であることに起因するという。

【鶏口となるも牛後となるなかれ】
解説するまでもなく、
「牛は大きいが、その尻尾にとまって享受する価値よりも、小さな鶏の頭になった方がよい」
と、いう価値観を示すことわざである。

いつの世にも牛後タイプの方が多数派であり、鶏口タイプは少し変わっていると見られている。

社会には、鶏口タイプと牛後タイプの両方がそろっていなければ成り立たない。
片方だけではまずく、牛後タイプをなくそうとすることを考えてはいけない。

【話半分、腹八分】
 30分の健康法というのがあるそうだ。
 腹 八分。仕事 10分。睡眠 12分。計30分。

《引用終わり》

ボクも終わります。おやすみなさい。


2010年7月21日 (水)

他人とは直角に交わる

養老孟司氏の「養老訓」を読んだ。

その中に、「他人とは直角に交わるべし」というのがあった。
それは、物理的な位置関係と、それに関する人間の心理状態からきた理論らしい。

面と向かうと意見がぶつかるだけだし、同じ向きだと同じ方向に向かうだけなので、二人でいる意味がない。
直角に座っていると、ベクトルはお互いの合力~つまりy=xのグラフになるので、それなりの方向に進む…という理論である。

さらに、剣道の奥義について、
「はじめから斜めを覚えようとしてはいけない。縦と横の基本を覚えれば、その応用として斜め切りが生まれる」
とあった。

そういえば、我が家の食卓は、今やボクと女房の二人きりだが、直角に座っている。
僕の正面にはテレビが鎮座し、女房は向かって右が指定席だ。
だから妻と面と向かって話をしたことがない。
いつも横から話かけられて、
「ふ~ん」とか、「へぇ~」と言っているだけだ。
決して仲のよい夫婦ではないが、何とか納まっているのはそのせいかも知れない。

このことは、裁判の配席でもうかがえる。
裁判官と被告、検事と弁護士はそれぞれ対面している。
裁判官は、最終的には左右の意見を聞き、はじめと最後に正面の被告の意見を聞いて最終結論を下す。

対面するもの同士が意見を戦わしても、ぶつかりあうだけだ。
裁定は横から見ているものが下す。

一方、「斜に構える」という言葉がある。
意味合いは微妙である。
正面からではなく、ずれた対応と、十分に身構える、という相反する意味がある。

謝るときは正面から行くが、密談やヒソヒソ話は横からやるのが常だ。

山登りだって、つづら折と直登がある。
ボクは直登は嫌いだが、ややもすると直線的に登って早く休みたくなる。

「急がば回れ」とか「基本に忠実」は分かっているがやめられない。
歳をとっても浅い考えが浮んでくるのが情けない。

早く楽になりたい。

2010年6月11日 (金)

思考の整理学

昨晩のブログで、「職場でひと悶着あった…」と書いているが、とんと思い出せない。
何かがあったのだろうが、酔っ払って一晩寝たらすっかり忘れてしまった。

一所懸命思い出そうとしたら、最近読んだ「思考の整理学」(外山滋比古著:ちくま文庫)の一説を思い出してしまった。
この本には、
「頭をよく働かせるためには、忘れるということがきわめて大切である。頭を高能率の工場にするためにも、どうしても絶えず忘れていく必要がある」
とある。

言い訳をすれば、ボクのようにハードディスクが1GB、メモリは64MB程度の頭だと、いちいち覚えていると大変なことになるのだ。
ボクのハードディスクは、パソコンと同じように、予めCドライブとDドライブに分かれているらしく、通常の思考ではCドライブだけで、Dドライブを使うことはないらしい。
ところが、Dドライブには変な拡張子付きのファイルが潜在していて、時々そこからメモリにアクセスしている痕跡が覗えるのだ。

ボクは単純なので、ハードディスクをきちんと整理しないまま、いきなりメモリ上でものごとを考えるたちなので、いま考えていることと、Dドライブからやってきたファイルが混在して支離滅裂になるのだろう。

…と、ここまで書いていると、ふと昨晩書こうとしたことを思い出した。
小さな事件ではあるが、そのままストレートに書くことには少し躊躇するような内容だった。
酔った頭でも一晩寝かそうという潜在意識が働いたのだろう。

ボクはいつもCドライブを使うようにできていて、ボクの方からDドライブにはアクセスできないらしい。
たとえば酒を飲んだ時とか、なにかの拍子にDドライブの方からメモリ上にやってくるようだ。
そして、メモリ上で大騒ぎした後は、さっさとDドライブに帰ってしまうのだろう。
そう考えながら、このDドライブに潜むファイルの拡張子を「.dnf」「.dns」と命名した。

なお、冒頭紹介した「思考の整理学」に、グライダー人間と飛行機人間の比喩があるが、実に興味深い。
受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明・発見するのが後者とされている。
そして、現実の日本はグライダー人間ばかり養成していることへの警鐘を鳴らしている。

ただし、これを読んで感じたことは、自分の力で飛べようが、上空に連れて行ってもらえれば飛べようが、最後はどこかに降りなければならないのだから、着陸地点を見つける広い視野も予め備えていくことが必要ではないか、ということだ。
それなしで飛んでも迷走するだけだ。

…と、この辺で頭がぐちゃぐちゃになってフリーズしそうなのでシャットダウンします。